日本のダンスの歴史は、明治初期「鹿鳴館の舞踏会」が始まりと言われています。
現在のボールルームダンスと違って、当時は上流階級の人々に限られたもので、大正時代に少しずつ大衆化の兆しが見え、日本初のダンスホールが設立されました。昭和に入るとダンス愛好家によるダンス技術の統一化を図ろうと玉置真吉氏の下「日本舞踏教師協会」が発足し、ダンスが文化的存在として動き始めます。
しかし、その後太平洋戦争勃発と共に日本の社交ダンスは一旦幕を降ろし、一般社会からダンスが消え去ることになります。

 終戦後の昭和20年頃になるとダンスの再建が始まり、昭和21年に教師団体の組織化を図るため、「日本社交舞踏教師協会」(NATD)が誕生し、近代ボールルームダンスに大きく貢献していくこととなります。
初代会長に池原南氏が就任され、日本のダンス技術構築のためアレックス・ムーア氏の「リバイズド・テクニック」を採用した資格認定試験の実施が始まります。ムーア氏の存在は、わが国のダンスの基礎を築いてくれた偉大な人と言えるでしょう。

 資格認定試験により会員が増加し、昭和25年、2代目会長の藤村浩作氏の時には、東京都教育委員会より社団法人の認可を取得するまでに発展を遂げました。この頃になるとダンス界は競技会の開催によりダンス愛好家が急増し、同年「日本舞踏競技連盟」が発足し、昭和31年には「第1回サンケイ杯全日本選抜選手権大会」が開催されるまでに成長しました。昭和54年、日本のダンス界に貢献してくれたムーア氏に敬意を払い、NATD主催「アレックス・ムーア杯スタンダード選手権大会」が開始されます。唯一の単科競技会であり、競技選手にとっては大変魅力のある競技会として現在も毎年2月に開催されています。NATDの2本柱「カム&ダンス」と「アレックス・ムーア杯」がこの頃に確立されました。

 NATDも昭和62年には時代の流れに沿い、「カム&ダンス」レコード盤がCD化され、レッスン用として益々普及していきます。
平成元年、NATD6代目会長、原潔氏の下、椿山荘にて「舞踏晩餐会」が開催されますが、翌年原潔氏逝去により、田代清氏が7代目として就任することになります。
 平成4年、財団法人「日本ボールルームダンス連盟」発足と同時に教師資格認定試験はこの財団が実施機関となったため、NATDは技術向上の一環として、積極的な講習会開催を行い、8代目会長玉井清氏の時代には「国際ダンスフォーラム」をホテルグランドパレスにて開催。
 平成13年には「アレックス・ムーア杯選手権大会」にラテンアメリカン種目競技会「東京都知事杯」が併設され、益々盛況な競技会となります。またこの年、NATDは新しく出版されたラテンアメリカン教本の特別講習会を3日間に渡り、後楽園ホールにて開催し、ラテンアメリカン種目の解読と技術向上を図ります。
 その後「NATD創立50周年記念晩餐会」と「国際フォーラム」の2本立ての開催を経て平成15年、日本ダンス会館開設に伴い、NATDもこの会館の5階に事務所を移転します。
 法改正後の平成23年4月には東京都より「一般社団法人」の認可を取得します。そしてこの年、9代目会長として竹村孝氏が就任し、シークエンスダンス協会との交流や他のジャンルのダンスとの交流と、ダンス愛好家の裾野の拡大を目的とした、“ダンスパッション”は、“ダンスは楽しい”をテーマとし開催しました。そして平成25年には奥村三郎氏が10代目会長として就任、「NATD70周年記念舞踏会」を迎える運びとなりました。


以上


(この原稿を書くに当たり、元理事の伊藤喜六氏のご協力を頂きました)